地方公共交通維持戦略の経済的評価:費用対効果分析(CBA)を用いた特定自治体事例研究
地方公共交通維持戦略の経済的評価:費用対効果分析(CBA)を用いた特定自治体事例研究
はじめに:政策評価の重要性と費用対効果分析(CBA)
地方における公共交通は、地域の社会・経済活動を支える基盤であり、その維持は多くの自治体にとって喫緊の課題となっています。しかし、限られた財源の中で、どのような維持戦略や投資が最も効果的かつ効率的であるかを判断することは容易ではありません。政策の有効性を多角的に評価する手法の中でも、費用対効果分析(Cost-Benefit Analysis: CBA)は、経済的な視点から複数の政策オプションを比較検討する有力なツールとして注目されています。
CBAは、ある政策やプロジェクトの実施によって発生する「費用」(コスト)と「効果」(ベネフィット)を可能な限り貨幣価値に換算して比較し、その正味便益(効果の合計から費用の合計を差し引いたもの)や費用対効果比などを算出することで、投資判断や政策選択の根拠とすることを目指す分析手法です。公共交通分野においては、運行費や補助金といった直接的な費用だけでなく、利用者にとっての時間短縮価値、事故減少による医療費・損害費の削減、環境負荷低減による便益、地域経済への波及効果といった様々な社会的費用・効果を包括的に評価しようと試みられます。
本稿では、地方公共交通の維持を目指した特定の政策に対して、費用対効果分析(CBA)がどのように適用され、どのような知見が得られたのか、架空の「A市」における事例研究として詳細に検討します。この事例を通じて、CBAが地方公共交通政策の意思決定プロセスにおいて果たす役割、その適用における課題、そして学術的な分析対象としての意義について考察します。
事例研究:A市におけるデマンド交通システム導入の費用対効果分析
背景と課題
A市は、人口約5万人の地方都市であり、特に郊外の山間部や高齢化が進む地域において、既存の路線バス網の維持が困難になっていました。利用者の減少に伴う運行本数の削減は、住民の移動の自由を制限し、医療機関へのアクセスや買い物などの日常生活に支障をきたすという地域課題が顕在化していました。市は、これらの地域における新たなモビリティサービスの確保が不可欠であると判断し、複数の選択肢(例: コミュニティバスの新設、地域住民による移送サービス、デマンド交通システムの導入)を検討していました。
これらの選択肢の中から、より効果的かつ持続可能な解決策を選択するため、A市は特定のコンサルタント機関に委託し、デマンド交通システムの導入を中心とした複数シナリオに関する費用対効果分析(CBA)を実施することにしました。CBAの目的は、単に経済的な効率性だけでなく、地域社会にもたらされる広範な便益を定量的に評価し、政策決定の客観的な根拠を得ることにありました。
取り組み内容:費用対効果分析(CBA)の実施プロセス
A市で実施されたCBAは、以下のプロセスで進められました。
- 分析対象シナリオの設定:
- シナリオ1: 現状維持(路線バスの段階的縮小)
- シナリオ2: 特定エリアにおけるデマンド交通システムの導入
- シナリオ3: デマンド交通システム導入に加え、既存バス路線の一部最適化
今回は、主にシナリオ2であるデマンド交通システムの導入に焦点を当てた分析について詳述します。
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費用項目の特定と貨幣換算: デマンド交通システムの導入に伴う主な費用項目が特定されました。
- 初期投資費用:システム開発・導入費、車両購入費、運行管理センター設置費など。
- 運行費用:人件費(ドライバー、オペレーター)、燃料費、車両維持費、通信費、システム維持費など。
- 管理費用:事務費、広報費など。 これらの費用は、将来にわたって発生する費用を予測し、適切な割引率(本分析では社会的割引率として年利4%を使用)を用いて現在価値に換算されました。分析期間はシステムの耐用年数や政策効果の発現期間を考慮し、10年間と設定されました。
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効果項目の特定と貨幣換算: デマンド交通システムの導入によって期待される主な効果項目が特定されました。
- 利用者便益:
- 時間節約価値:利用者の待ち時間や乗車時間が削減されることによる価値。
- 運行頻度・サービス範囲拡大によるアクセス性向上価値。
- 定時性・快適性の向上価値。
- 運賃負担の軽減価値(もし補助金等により運賃が抑えられる場合)。
- 交通システム全体の効率化:
- 既存路線バスの運行最適化によるコスト削減(シナリオ3の場合)。
- 外部効果:
- 事故減少による社会的コスト削減:自家用車からの転換等による事故発生件数の減少に伴う医療費、生産損失、物的損害等の削減。
- 環境負荷低減便益:CO2排出量削減、大気汚染物質削減などによる便益。
- 地域経済への波及効果:移動の円滑化による消費活動の活性化など。
- 社会的包摂(Social Inclusion)の向上:高齢者や交通弱者の移動手段確保によるQoL向上、社会参加促進など。 効果項目の貨幣換算は、既存研究の単位価値や、利用者の支払意思額調査(Contingent Valuation Method: CVMなど)を参考に試みられました。特に時間節約価値については、利用者属性に応じた賃金率や可処分時間の価値を用いて推計されました。社会的包摂のような貨幣換算が難しい項目については、定量的な指標(例: 利用者数、外出頻度増加率)で示しつつ、定性的な評価を補足する形で考慮されました。
- 利用者便益:
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正味現在価値(NPV)および費用対効果比の算出: 将来の費用と効果の現在価値をそれぞれ合計し、効果の合計から費用の合計を差し引いた正味現在価値(Net Present Value: NPV)が算出されました。また、費用に対する効果の割合を示す費用対効果比(Benefit-Cost Ratio: BCR)も算出されました。
$NPV = \sum_{t=0}^{n} \frac{(B_t - C_t)}{(1+r)^t}$ $BCR = \frac{\sum_{t=0}^{n} \frac{B_t}{(1+r)^t}}{\sum_{t=0}^{n} \frac{C_t}{(1+r)^t}}$
ここで、$B_t$は時点$t$の効果、$C_t$は時点$t$の費用、$r$は割引率、$n$は分析期間(年)を示します。
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感度分析: CBAの結果は、費用や効果の推計値、割引率などの前提条件に影響されます。これらの前提条件が変動した場合に結果がどのように変化するかを確認するため、感度分析が実施されました。例えば、利用者数の予測が10%上下した場合、燃料価格が変動した場合、割引率が変化した場合などのシナリオでNPVやBCRが再計算されました。
結果:分析で明らかになった費用と効果
A市における分析の結果、デマンド交通システム導入シナリオ(シナリオ2)は、現状維持シナリオ(シナリオ1)と比較して、初期投資や運行費用は増加するものの、利用者便益(特に時間節約価値とアクセス性向上)や事故減少効果といった社会的便益がそれを上回る可能性が示されました。具体的な数値(架空の例として提示します)としては、分析期間10年間における総費用現在価値が約3億円、総効果現在価値が約4.5億円と算出され、NPVは約1.5億円、BCRは1.5となりました。これは、投資した費用に対して1.5倍の効果が期待できることを示唆します。
シナリオ3(デマンド交通+既存バス最適化)では、さらに既存バス路線の効率化による費用削減効果も加わるため、BCRは1.8と最も経済的な効率性が高いと評価されました。一方、現状維持シナリオは、短期的な費用増は抑えられるものの、長期的な利用者減少とそれに伴う社会損失(移動制約による生産性低下、QoL低下など)を考慮すると、NPVはマイナスとなることが示唆されました。
感度分析の結果からは、デマンド交通の利用者数の予測精度や、時間節約価値などの単位価値の妥当性が、分析結果に大きな影響を与えることが確認されました。利用者数が予測を下回る場合や、貨幣換算した便益が想定より小さい場合は、NPVが低下し、プロジェクトの経済的な合理性が低下するリスクがあることが明らかになりました。
分析・考察
A市の事例研究から、費用対効果分析(CBA)は、地方公共交通維持に向けた様々な政策オプションの経済的な合理性を比較評価する上で有用な手法であることが確認されました。特に、利用者便益や外部効果といった市場メカニズムだけでは測りにくい社会的便益を貨幣価値に換算して考慮することで、公共交通が地域社会にもたらす広範な価値を定量的に示すことが可能となります。これは、単年度の収支だけでは判断できない公共交通の意義を、データに基づいて説明する上で重要な視点を提供します。
しかしながら、CBAの適用にはいくつかの課題も存在します。最も困難な課題の一つは、社会的包摂の向上や地域コミュニティの維持といった、貨幣価値への換算が極めて難しい効果の扱いです。A市の事例でも、これらの項目は定性的な評価に留まらざるを得ませんでした。これらの非市場財・サービスの価値をどのように適切に評価・考慮するかは、公共交通分野におけるCBAの精度と信頼性を高める上での継続的な研究課題です。
また、CBAはあくまで経済的な効率性という一つの側面からの評価であり、政策決定においては、公平性(特定の地域や住民層への配慮)、実現可能性(技術的、制度的制約)、地域住民の意向といった多様な要素を総合的に考慮する必要があります。CBAの結果は、これらの要素と組み合わせて、最終的な政策判断を下すための情報として活用されるべきです。A市では、CBAの結果を地域住民説明会や議会での議論の基礎資料として提示し、様々なステークホルダーとの合意形成を図るプロセスが重要視されました。
他の地域への応用可能性としては、A市の事例で用いられたCBAの基本的な枠組み(費用・効果項目の特定、貨幣換算手法、割引率の設定、感度分析)は、多くの地方自治体における公共交通政策評価に適用可能と考えられます。ただし、具体的な費用や効果の推計値、特に地域特性に依存する利用者数予測やアクセシビリティ向上効果などは、各地域の状況に応じて詳細な調査・分析が不可欠です。
結論と今後の展望
A市における費用対効果分析(CBA)の事例は、地方公共交通の維持・活性化に向けた政策・投資の経済的合理性を評価し、データに基づいた意思決定を支援するCBAの有効性を示唆しています。CBAは、費用と効果を定量的に比較することで、限られた資源を最も効果的に配分するための重要な示唆を与えます。
一方で、非市場便益の評価の困難さや、他の政策評価軸との統合といった課題も依然として存在します。今後の研究においては、非市場財・サービスの評価手法(例: 選択実験法 Discrete Choice Experiment: DCEなど)の公共交通分野への応用や、CBAと他の評価手法(例: 費用効果分析 Cost-Effectiveness Analysis: CEA、多基準分析 Multi-Criteria Analysis: MCA)を組み合わせた統合的な評価フレームワークの開発が期待されます。また、政策担当者がCBAの結果を適切に理解し、政策決定に反映させるための能力向上や、分析プロセスの透明性確保も重要な課題と言えます。
地方公共交通の持続可能な未来を構築するためには、経済的な視点からの厳密な評価に基づきつつ、地域の社会・文化的な価値や住民のニーズを深く理解した多角的なアプローチが不可欠です。費用対効果分析は、そのための重要な分析ツールの一つとして、今後さらにその活用が進むことが期待されます。